上座部仏教の正典として知られるパーリ語経典について、現存資料のうち年代を物理的に確定できる最古級のものが、スリランカではなく、ミャンマー中部に位置する古代都市スリクシェトラ、現地名タイエーキッタヤーで確認されているという事実があります。
前回述べたように、かつてバガン王アノーヤタ―は、シンハラ仏教が崩壊寸前のなか立て直しを図ることを決意、隣国モン・タトゥン国を滅ぼし、現存する唯一と思われた三蔵経典を入手し、すぐさまセイロン島に送り届け、これによってシンハラ仏教は復活を遂げるという、仏教史に燦然と輝くロマンをいまに伝えます。
ところが、実はこのとき、バガン王朝のまさにお膝元、領土内にさらに古い仏典があったとはビルマ史上最強の王といわれるアノーヤタ―でも気づかなかったのです。20世紀に発見されたパーリ語経典は、ピュー遺跡のパゴダの地下層に奉納されていたものですが、仏教に深く帰依していたバガン王にとってはまさかというところでしょうが、歴史的ロマンを覆す歴史の皮肉だと言えそうです。

スリクシェトラで発見された経典
スリクシェトラで確認されたパーリ語経文資料
このスリクシェトラから出土したパーリ語資料は、5世紀から6世紀頃と推定される石碑、金属板、金箔などに刻まれた仏教経文の断片です。これらは文字資料として保存されており、言語学的分析により、使用されている言語がパーリ語であることが明確に確認されています。
重要なのは、これらの資料が1点の著名な経典としてまとまって発見されたものではなく、複数の碑文や刻文として段階的に確認されてきた点です。それぞれの資料は個別に調査され、後年の研究の積み重ねによって全体像が明らかになっていきました。
スリクシェトラ遺跡に対する本格的な考古学調査は、20世紀初頭に始まりました。特に重要なのが、英領ビルマ時代に実施された調査です。1907年から1913年頃にかけて、当時のビルマ考古局によって、遺跡全体を対象とした体系的な発掘と調査が行われました。この調査により、多数の仏教関連遺物が確認され、その中に碑文、石刻、金属板など、文字を伴う資料が含まれていることが明らかになりました。
その後、1920年代から1930年代にかけて、これらの出土資料について整理、読解、使用言語の判定といった学術的作業が進められました。この研究過程において、複数の資料に刻まれた文字がパーリ語であり、仏教経文の断片であることが学術的に確定しました。この段階で、スリクシェトラ出土のパーリ語資料が、年代を確定できる現存資料としては極めて古い層に属するという認識が形成されていきます。

スリランカに伝わるパーリ語経典との比較
一方、スリランカにおいては、パーリ語経典が上座部仏教の正典として体系化され、長い時間をかけて写本として継承されてきました。ただし、現存する写本資料のうち、年代を物理的に特定できるものに限ると、その多くは9世紀以降に属します。スリランカでは、それ以前にも経典が存在していたことは確実ですが、ヒンドゥーによる侵攻と、アヌラダプラ崩壊後の混乱により失われ、現時点で確認できる最古層の写本資料は、スリクシェトラ出土の碑文資料よりも後の時代に位置づけられます(バガン王アノーヤタ―が寄進したものかどうかは不明)。
スリランカ国内にもどこかに眠っている可能性はありますが、この辺は上座部の教義自体が歴史よりも現世での功徳の方が重視されるためか、考古学的な見地に立って発掘をというところまで至っていないように感じます。

スリクシェトラ資料が示す史料的意義
このスリクシェトラで最古級のパーリ語資料が確認された事実は、単なる年代の記録を更新したという以上の、仏教史の解釈に根本的な修正を迫る意義を持っています。伝統的に上座部仏教の中心とされてきたスリランカと、この貴重な考古学資料が残るミャンマー中部のスリクシェトラという地域が、必ずしも最も古い物理的証拠が残る場所と一致しないという、歴史の逆転現象を示しているからです。
この事実は、仏教の伝承史を文献記録(写本)だけで追うときに見える時間軸と、考古学的な証拠(碑文)に基づいて検討するときに見える時間軸との間に、大きな隔たりがあることを示しています。最古のパーリ語資料がスリランカではなくスリクシェトラで発見された背景には、仏教の継承方法の違いが潜んでいます。スリランカでは、ヒンドゥーの侵攻や戦乱で写本が失われながらも、宗教コミュニティが健在であったため、教義の権威を保つために古い写本を繰り返し新しい紙や貝葉に書き写して更新するという伝統がありました。この健全な継承の文化が、皮肉にも初期の物理的資料を消失させた要因となったのです。
一方、スリクシェトラでは、ピュー王朝の崩壊や中心地の変動に伴い、仏教経文がパゴダや塚の地下に奉納物として安置され、そのまま忘れ去られるという形で保護されました。この奉納による隔離こそが、5世紀から6世紀頃という古い時代の経文を、戦乱や経典の書き換えという歴史の波から守り、現代まで原型に近い形で残存させた決定的な要因です。
つまり、スリクシェトラの資料は、バガン王アノーヤターの時代のロマンを覆す歴史の皮肉であるだけでなく、仏教文化の盛衰における継承と保存のメカニズムを解き明かすための貴重な鍵となります。それは、最も栄えた場所が必ずしも最も古い資料が残る場所ではないという、歴史研究における実証主義の原則を改めて示すものなのです。
この発見により、上座部仏教の初期の広がりや経典の成立過程は、文献伝承の物語だけでなく、埋もれた考古学資料の証言からも、より深く、多面的に捉え直されることになります。
おそらく、この物語に触れた人はこれまで誰もいないように思いますが、これこそが歴史のダイナミズムといえるかもしれません。
