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神がかったバガン仏教の勃興

11世紀の上座部仏教はほぼ消滅しても良いよいような状況にありました。スリランカはヒンドゥー今日のチョーラ朝の侵攻を受け、ほぼ壊滅状態。インドシナでは、モン族のタトゥン朝はアヌラダプラ時代の仏教が深く根付いていたと思われ、仏教は盛んでしたが、東の強大なクメール王朝からの圧迫があり、国家の存続も危うい状況下にありました。

そして、西からビルマ族のバガン王朝が攻めてきて呆気なく滅びます。王であったマヌーハ自身がバガンに連行されてしまうという有様で、タトゥンは跡形もなく滅んでしまいます。

ところが、バガン朝のアノーヤタ―王は、突如新興国家の国是を上座部と定め、仏教を礎とした国づくりをはじめます。仏教信仰の篤かったピューから大量のレンガを取り寄せ、仏舎利などをバガンの仏塔に納め王城の守護とします。

驚くことに、滅ぼしたモン・タトゥン国の王マヌーハを幽閉しますが、実際にはモンの仏教文化を取り入れ、仏教建築や仏教芸術をバガンに導入するのです。これによってバガン初期の仏教は形作られていきます。バガン初期のパゴダの多くにモン語が見られるのはこのためです。

アノーヤタ―王が次にやったことは劇的でした。
なんと壊滅寸前だったスリランカ仏教の再興をはかったのです。
これは現在スリランカ考古庁が、シンハラ仏教の再興はビルマのプロジェクトとして行われたと認識していることからも明らかで、同時代の上座部復興の都となったポロンナルワには、「ラーマナー(バガンのこと)の王はティピタカ(三蔵経)を奉納し、年齢と同じだけの寄進をした」とアノーヤタ―王がパーリ経典を送ってきたことを伝えています。

ここで、一旦整理しますと、当時スリランカはチョーラ朝の侵攻を受け、仏教界も崩壊状態にありました。そして、セイロン島にはこの三蔵経が失われていたようなのです。その三蔵経はバガンにもありませんでした。
実はバガンのお膝元であるピューのタイエーキタヤー遺跡のパゴダの地下から、この時代よりもさらに古いパーリ語経典が発見されますが、アノーヤタ―の時代にはその存在が知られておらず、つまりは国内にないものと考えられていました。

そして、このスリランカにも、バガンにもない三蔵経典は、そうモン・タトゥン国にありました。アヌラダプラ時代からスリランカと交流の深かったモン族は信仰も強く、インドシナの中で上座部先進国といっていい地域でした。

前述したとおり、バガンはこの国を攻め、王自ら連行される事態となったわけですが、一般的にバガン・アノーヤタ―王は、“タトゥン・マヌーハ王に、三蔵経を譲るように求めたが、マヌーハがこれを断ったために、タトゥンを攻めた”とされています。

そして、軍事力のまさるバガン王朝が勝つのですが、アノーヤタ―はこののどから手に入れたかった三蔵経を入手したと同時に、スリランカに送り届けます。

これではっきりすると思いますが、アノーヤタ―は最初から三蔵経がセイロン島から失われていて、スリランカ仏教再興のためには絶対に必要な神器であることを知っていて、そのうえでタウン国を攻めたはずなのです。

その証拠に、スリランカは即位した若きヴィクラマシーラ1世が、これに感激、仏歯のレプリカを返礼としてアノーヤタ―に贈っています。アノーヤタ―はこれを拝受し、バガンにローカナンダという仏塔を建て、これを納めます。

11世紀の仏教はこのようにして海を隔てた2つの国によって復活の序章が幕を開けるのです。

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