スリランカに仏教が伝わったマヒンダの布教以後、島の信仰は王権と密接に結びつきながら大きく発展しました。
その後の歴史は、仏教が政治や文化の中心に根づいていく過程であり、同時に思想的な試練の時代でもありました。

大寺派の確立と国家仏教の形成
マヒンダによって開かれたマハーヴィハーラ(大寺院)は、王都アヌラーダプラの宗教的中心として発展しました。
ここを拠点に、出家僧の学問や修行が体系化され、戒律を重視する「上座部仏教(テーラワーダ)」の思想が確立します。
僧院は王の庇護を受けながら拡張され、やがて教育・医療・法制度にも関与する存在となりました。
このころのスリランカ仏教は、宗教というよりも国家そのものの精神的支柱となり、王の正統性を保証する役割を担うようになります。
しかし、同じアヌラーダプラの都の中で、もう一つの潮流が静かに芽生えつつありました。
それが後に大きな分裂を生む「アバヤギリ派」の台頭です。
アバヤギリ派の興起
紀元前1世紀、ヴァッタガーミニ・アバヤ王が内乱を経て王位に復帰したとき、彼を支えた僧侶マハーティッサ長老のために新しい僧院を建てました。
これがアバヤギリ僧院であり、のちに「アバヤギリ派」と呼ばれる学派の中心となります。
アバヤギリ派の僧たちは、学問と研究に熱心で、当時インド本土で発展していた大乗仏教や密教の思想を柔軟に取り入れました。
一方、マハーヴィハーラ(大寺派)は戒律を厳格に守り、仏陀の教えを純粋な形で継承しようとする立場を貫きました。
この両者の違いは、やがて思想だけでなく、政治や文化の対立へと広がっていきます。

二つの仏教と王権のゆらぎ
スリランカの歴代の王たちは、しばしばどちらか一方の宗派を支持しました。
王権がマハーヴィハーラを支えればアバヤギリは抑えられ、逆にアバヤギリが栄えれば大寺派の勢力は衰える。
こうした政治的な振れ幅の中で、スリランカ仏教は二重構造のまま発展していきます。
5世紀には中国の僧・法顕がスリランカを訪れ、アバヤギリ僧院に5,000人以上の僧が住んでいると記録しました。
当時のアバヤギリは、学問・翻訳・儀礼の中心として国際的にも知られ、インドや中国との交流を通じて新しい仏教思想を広めていました。

教義の違いと東南アジアへの影響
マハーヴィハーラ派は「戒律と伝統を守る」ことを最も重んじ、出家僧の清浄な生活を理想としました。
それに対してアバヤギリ派は、より柔軟に仏教を解釈し、民衆の救済や菩薩道の理念を取り入れていきます。
この思想的対立は、スリランカ国内だけでなく、後に周辺諸国の仏教にも影響を及ぼしました。
スリランカからインドシナ半島へ仏教が再び伝わったとき、アバヤギリの影響を受けた僧たちは、
大乗的な経典や象徴的な儀礼を携えてミャンマーやタイへと渡りました。
その結果、バガン王朝を中心とした中西部インドシナでは、上座部的な戒律の中に大乗・密教の要素が混在する、いわゆる「旧派仏教」の複雑な体系が生まれました。
バガンやそれ以前のピュー王朝、東の古クメールなどは、インドと距離的にも近く、インド仏教の影響が強いこともあり、習合的な仏教ができあがっていったと考えられます。
スリランカの宗派分裂は、こうして東南アジアの仏教世界に思想的な混乱を残し、
各国で独自の仏教形態が生まれる一因となったのです。
マヒンダがもたらした清らかな信仰の種は、時を経て多様な花を咲かせました。
その中には、戒律を守り続ける厳しさと、他の思想を取り入れる柔軟さの両方が共存しています。
スリランカ仏教の歴史は、まさにその二つの力がせめぎ合いながら広がっていった人間の信仰の記録でもあります。
